From:渡辺知応
たかが釣り。されど釣り。
私は釣りをあまりやった事がありませんが、とても奥の深いものだと聞きました。
どうやら、さまざまなデリケートの心理が交錯するものらしいのですが、、、
そんな釣りを題材にしたことわざが幾つか存在します。
例えば、『逃した魚は大きい』といった教訓です。
このことわざの心理は釣りの技術がどうのこうのとか、釣りの真髄が奥深く優れているといったものではありません。
ただ単に、残念、口惜しいといった事といった事でしかありません。
『釣り落とした魚は大きい』といった表現で言う場合もありますね。
釣り逃したのに、あの魚は大きかったとか、小さかったとか言っても仕方なく、『逃げた』という事実だけが残るのにクヨクヨと言い訳をする姿が思い浮かぶのではないでしょうか。
無念さが客観的な判断を狂わせる際に使われる言葉でもありますよね。
手に入れ損なった物ほど大きく、また価値のある物に思えてくるという人間の心理をマジマジと表していますよね。
まぁ、実際のところは価値があるのかどうかはわかりませんがね、、、
類似することわざには『魚』ではなく、具体的な名前で言われる事もあります。
鮒(ふな)とか、鯰(なまず)とか、鰻(うなぎ)などがあります。
うーん。どれも淡水生物ですね、、、なぜだろう、、、
また、魚以外でも『逃げた猪は大きい』というものもあります。
もっと言い過ぎる例として『山より大きな猪はでない』といったことわざもあるようです。
いやはや、いい加減にしてほしいものですね。
誇張するにも程がありますね。
まぁ、いずれにしても、逃した本人は声高に残念がっているのに対して、近くで見ている人からすれば冷めた目で見ている図なのです。
もしこのことわざを使う機会があったら、周りを見渡して見てください。
あれ?もしかしたら大した事ないかも。。。
と、近くの人の冷めた視線で事の小ささに気がつくかもしれませんよ。